そこそこ中年なのだけど、20年ちょっと前と同様にここを使用したりする。
だれも見ていないしー、という前提なので正直な心情吐露や記録の場となっている。

ブログという言葉や概念が今ほど一般的になっていなかった頃から使っている。

紙媒体での「日記」を残したり運んだりすることに限界を感じてから使い始め、今では当たり前になっているWEB上での交流や繋がりの面白さを得られたのもこの場が初めてで、きっかけだった。

WEBで知り合った人に、実際に会う。ここで知り合った女性と初めてそうしたことをした。
(もちろん、いかがわしい、あやしい、あれではないです。お友達として)
彼女とはなんとなくゆるやかな交流と繋がりを保ち、15年か、それくらい経った。

彼女の人生の直近約15年くらいを見知っているわけで、そうなるとほとんど会わないでいても、繋がり続けている感覚を維持するものだ。不思議なものです。

初めて会った日のことはよく覚えています。
1時間以上遅刻していらして、さわやかに登場したのでした。
その次の時も1時間くらい遅刻して、それ以降も何度か。
天然ボケなのか、そうでないのかわからない部分もあった。
でも憎めないし、それどころか私は、彼女のあらゆる点に憧れ、とても尊敬していたのでした。

20年くらい

2021年9月7日 日常
たぶんここを20年くらい使っている
年齢がバレる
別にいい。
6歳くらからからここを使っているのかもしれないじゃないか。
知らない。
今、それくらいの年齢だったらしんどいな
だからいい。

その間にいろんなことがあったような、なかったような、

いえ、回顧録を記そうってんじゃないのです
現在進行中
何がって、めくるめく人生が
人生このままでいいのか?!となりがちなお年頃、というものがあるらしいです。

まさに。

不安なのは自分自身の内面的な事だけであって、きわめて安定、平凡に平和に生きている
まぁいろいろあるけれど、お陰様の安定で、どうにかこうにかやって行けている

楽しみもある、喜びもある
何不自由ない
おそらくそれが真実

これを捨てて、遁走することができるか

できないだろうね、やらないだろうね
賢い選択、正しい生き方、なんでしょうね

ここのところしばらく、自分の大きな欠落について気が付かされたり、それについて考えなくてはならないことに直面し、自分ってもんについてぐるぐる考えています。

本当にもういい歳の大人なのに、こんなこと考えているの、遅すぎるというか、なんなんですかね、万年思春期なのか?
いや、思春期の頃どころか、若かりし頃には気が付かないのよ、この欠落、異常さは。

で、その流れで思い出した、気が付いたことが在るのです。

子供の頃、そうだな、小学校に入る前くらいまで、私に見えている世界は、基本的にくもりガラスの向こう側にあるような、味気ない色彩しか持たない世界だった。

かといって退屈でもなんでもなく、それ以前に、私はなんにも感じなかった。
あまりに悩み考え抜いて、原因追及
結果、脳の機能が一部おかしいという結論に。かなりのショック。

生まれつきのそうした脳の働きに加え、育った環境、というか母親から強要されていた思考が悪影響を及ぼしたのは間違いない。

もうほんとにいい歳になってもこの呪縛というか、ま、洗脳ですね
あ!そうか、洗脳だ
そうそう、それゆえにこんなに苦しむことになるなんて。

子供のうちは若いうちは、子供だったからとか、まぁどうにか若さゆえとか理由が付いたのだけれど、いい大人になって、地球での社会生活のコアな部分を背負うような年齢になってこんなにこんなにつらくて苦しい思いをすることになるのです。

と、それを今さらどうしてくれるんだ、と言っても始まらないし、そんなことするつもりもない。

どうやって克服して行くべきなのか。
しかし脳の機能のおかしさと、思考回路のおかしさ&こじれは、かなり手ごわい。
どうにもならん気がしています。

とにかく、酸素が多すぎるんだ!
一度言われたことは永遠に気にるタイプです。

根に持つとか執念深いのとはちょっと違う。
指摘されたことに対して、というのかな。

例えばある時、ある人に(ことさら好きな人とかね)「君のこういうところが気に入らない」と言われたら、それ以降、自分の言動を逐一考えて制限してしまう。

こんなこと言ったら、こんなことしたら、これは「気に入らない枠」に該当するだろう、だからやめよう、控えなくては、気をつけなくては、と。

それでいろんなことが怖くなり、手も足も出なくなってしまい、1人、悶々とする。

こうした思考って、人の顔色をうかがう、人に気に入られようとする、嫌われたくない、傷つきたくない、の表れなのだ!と言われてしまうのだろうけれど、

人の顔色をうかがわないで、人に気に入られることも嫌われることも気にせず、傷なんて全く平気、という人もいなかろうと。。。

バランスのとり方がわからない。
それどころかどんどん臆病になっています

もう少し傍若無人になりたい
あなたが気に入るか気に入らないかなんていちいち気にしていられるかもー、うるさいうるさい!くらいの感じに

幾度も幾度も

2021年3月4日 日常
思い出すのは久しぶりではないけれど、4年前の3月5日のことを「しみじみと思い出す」のは久しぶりだ。

思い出したからといって涙にくれることもかなり減った。
いや、哀しみが薄れたわけではなくて、本件に関しては、いつでもいくらでもたくさん泣けるということが分かっているからなのだと思う。

それと、時が経つにつれ、その日の様子や自分の事を客観的に捉えられるようになったのも一因。

だから、もうやたらにたくさんは泣かないです
どうか安心して。

で、なにをどう思い出していたかというと、3月初旬は着るものに困るんだわ、ということ。

当日、一応、ちゃんとした服装をしなくてはと思い、上下そろいの無難極まりないスーツ(普段からどんどん着られるようなお値段決して高くないやつです)を急いで調達して、いやこれだけでは寒いなぁとペラペラしたダウンを羽織って行ったのでした。
寒かった。

ペラペラしたダウンをエントランスで急いで脱いで、名前を伝えたら、ああ準カカオさん、と案内してくれたのが、彼女から何度か話を聞いていた女性だった。
考えていたようなイメージと全く違うことに驚き、なるほど、これはどおりで彼女は辛かったわけだと、その時、初めて気が付いた。

いえ、その女性がヤな感じの人だったということではなく、雰囲気的にどことなく彼女と共通する点が多い気がしたの

似ているからこそ、比較し、比較され、それが辛さの1つだったのだなあと。

そうだ、当日は多分、私が一番泣いていたと思う。
ホテルの会場のカーペットの上を大粒の涙で汚したのは私です。
たくさんの人前でこんな風に涙が溢れるものなのだと、こんな姿を見せることを制御できないものなのだとこれまた初めて知ったのでした。


そんなこと思い出していた。
今年もどうやら寒い寒い寒い3月5日がやってくる。

私は今でもいつでも何度も思うよ
貴女と昔と今と未来の話をしたい
互いの苦労と喜びと、それから馬鹿な話をしたい
本の話をしたい
最近流行だという長めのタイトルの漫画が原作のドラマみたいなタイトルですね。

面と向かって語り合うようなことでもないから「考えない」ような気がしているだけなのかもしれない。

だけど、世の中で広く認識されている「愛」のバリエーションは、ごくごく限られた種類だけなのではないか?と、すっかり大人になった今、思ったりするわけです。

ホコホコとあたたかく、笑顔とぬくもりに溢れたものだけが愛ではないのに、そう思い込ませられ、錯覚させられている。
もちろん、厳しくすることも愛だ、というパターンもみんな知っている。

ではその愛とは?


なんでしょうか春だからでしょうか、いきなり壮大なテーマについて考え始める夜なのでした。

ちなみに、発情しているわけではありません。
あしからず

しんでんづ

2021年2月16日 日常
あまり発したくない言葉ですがめちゃくちゃ忙しい
忙しくても給料は変わらんのよ
しかし仕事があるだけでありがたいのだ。
やめるもんか。
いやだお金が無い生活なんていやだ

とはいえ久しぶりに本格的に心身崩壊の危機で、さすがに年齢も年齢なもんでごまかしがきかなくなってきた。

とはいえ、これまでどうにかやってこられたのだから、これからも大丈夫なのだ。

ついにしんでんづ、異常が出まして、どうしたもんかしらねぇ
あまい忙しい忙しいうきゃーみたいなことは言わないし、言いたくない方なのですが、仕事上大変に忙しくしていました。
していましたというより、エンドレス多忙。

これは禍の影響によるところがおおきいのですが、仕事においてそれ以外にもイレギュラー案件が重なり、冷静になって立ち止まると、まぁよくやっているよなぁというくらい働きマンな日々であります。

しかしながら仕事がある、収入があるというのはありがたいことで(なにせ就職難や雇用の危機などを経験済み)これはほんとで本音。

とはいえこのご時世で、はたと働き方、さらには生き方まで考えちゃったりするんですよね、あぶないあぶない。

そう、あぶないんです。

ついうっかり、そうだなぁもう勤め人として働くってのどうかなぁ残りの人生考えたら気力体力あるうちに方向転換、ワタシラシク生きるのも大事かも♪

とか、ダメ。私の場合はそれはダメ。
勤め人以外、できないもん。

で、なんの話だっけ
あ、難に因果で今の世の中に生きているのかしらわたしってことね。

でもじつはそんなことどうでもよくて、結局気になることは、毎日の食べるものや着るものや読むもののことだったりします。

だからありがたや、ってはなし。

変な感じで日常が過ぎて、もはや11月も下旬であります。

異常が日常になりつつあります。
変だよなぁ、とっても変だ。

でもさ、これってすごく貴重な体験。
世界中で、同じものに対して、向き合っている、たたかっている。
これってすごいこと。
国同士でどうのこうのしている場合じゃなくなってる感。

映画ならばあれですよ、地球全体がなんらかに攻撃されて、それに立ち向かう的なあれですね。

わたしらとっくに「『戦争を知らない子供たち』を知らない子供たちの子供」なんだけれども、決して戦争とは比較にならないのだけれど、
んーー、と思うところはありますね。

さてそんな異常な日常においても、ありがたくも仕事があって、収入があって、ほんとにありがたくて、ありがたいなぁということを忘れないで頑張っていきたいと思います!
(つかれてきている)



情緒ある動物

2020年11月14日 日常
人間てのもやっぱり動物で、つまり、動物としての目的を果たすために生きている。

良いとか悪いでは無くて、そういうもんなんだ。

だから、男と女がいて、子孫が生まれる。
そうしたいという本能が備わっている。
単純だけど、究極の仕組み。

そもそも単なる動物なのに、「人間様」のつもり。
情緒ある動物。美しくもあり、醜くもある。

またまた中学生みたいなことを記しますがね、いい大人がね。



つい最近、「反出生主義」という言葉を知りました。
はじめて見聞きした時、え?意味わかんない!と思いました。
気持ち悪いとさえ思いました。
反出生主義を唱えている人自身も、生まれてきたからこそ、今ここに居るのに!と。

実は急激に進む、ということは少ないんじゃないかと思う。
急激に見えて、水面下で、緩やかに緩やかに進んでる。

なんでもそうなんじゃないかな。
特にわかりやすいのは病気で、気付いた時というのはスタート時点ではなくて、緩やかに進み中の時点だったりもする。


どのくらいの時間を経てこうなったのか、はっきりとは分からない。
やっぱり15年くらいかなあとも思うし、子供の頃からのことが原因かな、と。

とはいえ、なんでもかんでも家庭環境や親のせいにするのは違うよなぁ、とも思う。
自分が決めて選んだことだ。それ以外に無い。

なんでも綿密に計画・準備をしておきたい方です。

それは時として(主に仕事においては)たいそう良いことなのでしょうけれど、その他の件については、計画と準備をしているうちにそっちがメインになってしまい、「もう、やったつもり」になったり、疲れてしまったりすることもある。

とはいえ、やっぱり、計画と準備は私の中でとても大事なことで、だからことその先をめいっぱい堪能できると思っているのす。

だから、急遽、というのはちょっと苦手。

当日夜のことを、当日昼間に連絡が来るというような急な誘いなどはもってのほか、だったりもする。

色々都合があるじゃないですか。
時間的な事だけでは無くて、いろいろと、ねえ。

喧嘩はしない

2020年9月28日 日常
気が弱い方ではないと思うのですが、強くも無いです。

だから人と言い争ったり、喧嘩したことは、うーん、あるかなぁ、ないかなぁ、ないなぁ、あるかなぁ…

「はっきり言う」というのもしない。

ダメ大人だ。

怖いんです。両親やきょうだいにだってそんなこと言えないんだから、まして他人(友人知人愛しきお方)なんか言えるわけがない。

あんまりいいことではないと、分かっている。
言うべきことを伝えたり、自分の考えを伝えるのは、喧嘩とは違う。
分かってる、分かっているけれどできない。

喧嘩になるのが嫌なので。

喧嘩はしないです。喧嘩するくらいなら一人で無く。

喧嘩しそうになるということは無いです
その手前で、うーん、ワタクシがあれだよなぁと、こちらが折れます。

心の中身はけっこう「鉄火」なんだけれどなぁ
まぁそれとこれは違うかぁ
よくいわれることだけれども、自分の言葉でメモしておこう
今日からお彼岸だから、というわけではないけれど。

「どう死にたいか」
これを念頭に置くことで、どう生きるか、どう過ごすべきか、はっきりしてくると思う。

自分の理想に近い死を迎えるために、将来にわたって、ある程度心身をコントロールできる余地がないといけない。
病に倒れようと、老いようと。

だったら、常日頃、どう生きるか。


老いて身動き取れなくなってどうこうして死ぬと、安易に考えていないだろうか?
病院や施設、家で死ぬんだろうなぁ、とか。

死をもっと自分にとって真実味を帯びたものとしてとらえなくていはいけない。

働き方を選ぶとか、生き方を選ぶとか、声高に叫ばれる昨今だけれど、誰も「死に方を選ぶ!」とは言わない。

(「自殺」は選択肢の一つではありません。選択の放棄ですからもったいないからダメ)


芝生に寝転んで、空を見上げながら死にたい。
気持ちいいだろうなぁと思う。
死は人生においてとっておきの快楽なのではないだろうか、そうであるべきなんじゃないだろうか。

そう、芝生。土を背に、空を仰ぎ見て。
肉体は地に還るようで、魂は空に還るような感覚を得られるのではいかな
土の温かさを感じながら、眠ったまま死にたい。

誰かに看取られることがそんなに幸福なことだろうか
立派な墓は、墓を建てた人たちの満足のためだけではないだろうか

虫や鳥が自分の死体を食べて栄養にしてくれたら、無駄が無くてよいのではないだろうか


賢くなったつもりでいて、私たちはますます死に方を選べなくなってきているのではないだろうか。

誰にでも等身大の死を。
自由な死を。
最後にご褒美的な快楽を。

ひどく旧式

2020年9月13日 日常
考え方がひどく旧式。

どうしてこうなっちゃったのか思い当るふしはいくつもあるけれど、大人になればなるほど、つまりね、もう21世紀だもんで、旧式は取り残されてゆくのであります、わからんけど。

そんなことを今更悩んだりする。
だけど急には新式?には切り替えられない。

旧式のおんぼろの、クラシックなまま、おそらく行くのでしょうね。

これけっこうきついです。
だったら最新式にさっさと乗り換えればいいじゃんね。

壊れてゆく前に

2020年9月2日 日常
体験したことの無いことがいくつも重なり、いやおうなく向き合わなくてはならなくて、逃げることも隠れることもできない。

今年は誰もがそうなんだと思う。

大変なストレスを抱えながらなんとか前向きにやってこう!というのを、半ば無責任に煽るような風潮が嫌いです。
つくり笑顔もたいがいにしろと言いたくなる。ワタクシひねくれ者なのだ。


仕事のあれこれ職場のあれこれも重なり、これまでに幾度も陥った状態になりそうな兆し。
ただ、これまでよりもしっかりしたし年もとりましたし波の乗り方もある程度マスターしている。

それでもぎりぎり食い止めている感じ
壊れている場合じゃないし、あんなにつらいのはやっぱりつらい。

いくだけいってみる
どこまでいくのかな
やってやろうじゃないか


更新頻度が増す

2020年8月18日 日常
更新頻度が増すのは、心情吐露をしたくなる事象が増えている証拠であります。








と、いうことであります。
今年はことさら夏休みが取れない状況であります。

仕事が忙しいというか、4月からのイレギュラー状態が緩やかに続き、それによる「各種シワ寄せ」が解消されないままであるため。

その上、なにやらでかい仕事の一端を担うことになっていて(いつのまにかですよ)、もう現実逃避欲がMAX振り切れてしまいました。

仕事、働くのは好きなんです。
そりゃぁストレスやレッシャーもいっぱい、ヤなやつも、ヤなこともあるけれど、総じて恵まれているのですから。
無職のつらさや、仕事の無さもよく知っているのですから。

とはいえ、人間だもの、普通の人間だもの。

遠出も禁止され、あらゆることに制限がかかる中、息抜きをしてこよう。
そうですよ、生き抜くために。


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