美術作品を見に行く動機。
 「うっとり」と「どっきり」を求めて。
 だから、ワタクシの感性がうっとりもどっきりも得られなかった場合、ちょっとがっくり。
 対象が有名無名を問わず、「うっとり」と「どっきり」を求めてさまようのは、ある種の冒険だ。冒険自体が楽しい。 

 ワタクシは門外漢なので詳しいことは分からないが、近年、小さなギャラリーでも、とても個性的だったり、その世界(なんというのかしら、どこにでも小さな、でも強固な繋がりを派生させるコミュニティというのは存在するわけで)では有名で一目置かれているところがあったりして、とても面白い状況だなぁと感じている。
 
 若い作家さん、女性の作家さん、超個性的な作家さんなどが、自由に活躍していてすごく面白い。
 時折、ワタクシの感性にどんぴしゃで「うっとり」と「どっきり」を与えてくれる作家さんに出会うと、宝物を見つけたような気がして、とても嬉しくなる。全力で応援したくなる。
 

 ところが。
 いくつかの小さなギャラリーの展示、面白いのでずっと注目し続けていたのだが、ここのところある種の閉塞感を感じるようになってしまった。
 
 今は様々なコミュニケーションツールがあるので、作家さん同士の横の繋がりがあって、どうしてもそのグループでかたまり、時としてグループ展などが開催される。
 繋がりのある作家さん同士は根底で毛色が似ていて、好きな作家さんたちが参加するグループ展は、ファンにとってはありがたい催しとも言える。
 才能同士が繋がって、さらに大きな波を起こすのは素晴らしいことだ。
 ギャラリーの個性がはっきりするのも面白い。

 しかし、第三者的視点を持ったキュレーションや「批評」があまり深く介入しないためなのか、肝心の「うっとり」と「どっきり」が馴れ合い(というのは過言だと思うけれど)の中に埋没しがちなのではないかしら・・・と。それが閉塞感の一因?
 「好きなように自由に」やることが最優先になってしまうと、見る者にとっての「うっとり」と「どっきり」が薄れることもある。
 
 宝物は、ただ単にそこに宝物として陳列されているだけで、輝きを放たない。
 

 なぜそれが素晴らしいのか、うっとりするのか、どっきりするのか、もっと語られても良いと思う。もっと、語る人がいてもいい。
 表現活動をする人の活動の場が増え、自由にできるようになったのと同じだけ、表現活動を見る人の自由な発言もどんどん増えればよいのに。
 
 そして、語られるに値する企画や展示を目指すのは、「うっとり」と「どっきり」を愛し発信する者(=作家やギャラリー側)の最低限の義務なのではないかしら。
 どうしたら、うっとりとどっきりをもっと伝えることができるのか。
 何も高評価を得ようとか、賞を獲ろうとか、ブームを巻き起こそうとか、お客さん殺到を目指そうとか、作品どんどん売ろうとか、そうしたことが目的なのではなくて…
 
  
 ひと昔かふた昔前の、やたらに他のテクストを用いた美術評論ではなく、もっと敷居の低い、もっと個人的感想に基づいたもので良いから(でも冷静にね)、批評や評論があっても良いのではないかしら。
 そうしないと、宝物が光らないのです。
 そして、批評や評論でもって、なぜそれが「うっとり」するのか「どっきり」するのか、納得したいという欲求を満たすのも、美術鑑賞の一つの喜びだと考えているのです。
  

 なんてことを考えております。考えてもしょうもないことを考えております。
 ええ、自分メモです、ええ。

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