耽美な思い出に心酔しよう、それが生きてゆく糧になるならば
2013年6月28日 読書 コメント (2)
最近、疑問に思っていること。
『自己の記憶において、自己は連続しているものなのか?』
ということ。
……おいおいおい、カカオ純さん頭狂ったか?
それともなんかアッチ系かソッチ系にイッてしまったか?
と思われてしまうかもしれないが、大丈夫です。
みんなはどうなのだろうか?
この感覚、うまく表現できないけれど、
「過去の自分が、別人であるかのような感覚」って、当たり前にあるものなのかな、ないのかな。
ある時期からある時期は連続していても、途中から思い出の中というか記憶の中の自分が別人のように感じる。
確かにワタクシなのだけれど、え?誰?そんな風に過ごしてたっけ?そもそも、どんな風に生きていたっけ? と、わからなくなる。
そんな考えが頭をよぎりぐるぐるしている最中に、よせばいいのに過去の写真をパラパラと見てしまい、これが地雷となって思いがけずどかーんと崩壊…
してたわけです、ここ数日。
アホです。
いい年をして。アホです。
で、話は戻るが、子供の頃から高校生くらいまでは連続しているというか、記憶の中の自分が自分である自覚がしっかりとある。
大学生以降からが曖昧なんだ。
通常なら、むしろ20歳過ぎたくらいから様々なことが統合されて行くのかもしれないのに、なぜか20歳過ぎた頃から数年前くらいまでが曖昧。
部分的にやけにしっかりと今の自分と繋がっていたり、別人のように感じたり。
幸いにして、ここ3年くらいはわりとちゃんと自分の自覚がある。
でもこの感覚も、あと数年したら、曖昧になって行くのかも知れない。
思い当たるのは、20歳頃から猛烈激烈に頭の調子が悪く、↑↓を繰り返していて、そのせいなのかもしれない。
これはきっとあんまり良いことではないような気がする。
なぜなら、地雷を踏むと、バラバラと感情(心・自分)が崩れ落ちるから。
それでも、自分がちゃんと自分だったことの証として、好きなもの、趣味思考が一貫していること、それらに対する思い入れが、今も昔も変わらないことがあって、これが本当に救い。
自分と自分を繋ぐ、自分と外を繋ぐ、素敵なものたち、好きなものたち。
あぁ、あの頃からずっと好きだなぁ、とか、あの頃よりもより深く理解できるなぁ、とか、そう感じることが救い。
『自己の記憶において、自己は連続しているものなのか?』
ということ。
……おいおいおい、カカオ純さん頭狂ったか?
それともなんかアッチ系かソッチ系にイッてしまったか?
と思われてしまうかもしれないが、大丈夫です。
みんなはどうなのだろうか?
この感覚、うまく表現できないけれど、
「過去の自分が、別人であるかのような感覚」って、当たり前にあるものなのかな、ないのかな。
ある時期からある時期は連続していても、途中から思い出の中というか記憶の中の自分が別人のように感じる。
確かにワタクシなのだけれど、え?誰?そんな風に過ごしてたっけ?そもそも、どんな風に生きていたっけ? と、わからなくなる。
そんな考えが頭をよぎりぐるぐるしている最中に、よせばいいのに過去の写真をパラパラと見てしまい、これが地雷となって思いがけずどかーんと崩壊…
してたわけです、ここ数日。
アホです。
いい年をして。アホです。
で、話は戻るが、子供の頃から高校生くらいまでは連続しているというか、記憶の中の自分が自分である自覚がしっかりとある。
大学生以降からが曖昧なんだ。
通常なら、むしろ20歳過ぎたくらいから様々なことが統合されて行くのかもしれないのに、なぜか20歳過ぎた頃から数年前くらいまでが曖昧。
部分的にやけにしっかりと今の自分と繋がっていたり、別人のように感じたり。
幸いにして、ここ3年くらいはわりとちゃんと自分の自覚がある。
でもこの感覚も、あと数年したら、曖昧になって行くのかも知れない。
思い当たるのは、20歳頃から猛烈激烈に頭の調子が悪く、↑↓を繰り返していて、そのせいなのかもしれない。
これはきっとあんまり良いことではないような気がする。
なぜなら、地雷を踏むと、バラバラと感情(心・自分)が崩れ落ちるから。
それでも、自分がちゃんと自分だったことの証として、好きなもの、趣味思考が一貫していること、それらに対する思い入れが、今も昔も変わらないことがあって、これが本当に救い。
自分と自分を繋ぐ、自分と外を繋ぐ、素敵なものたち、好きなものたち。
あぁ、あの頃からずっと好きだなぁ、とか、あの頃よりもより深く理解できるなぁ、とか、そう感じることが救い。
コメント
あ、確かにそうですね、日々細胞は生まれ変わり続けますし、数年間かけて入れ替わるもの(骨でもないし・・・何だったかしら、忘れてしまいましたが)もあるようですし、記憶・思い出って本当に不思議ですね。
毎日生まれ変わる
昨日の続きを生きる
明日の前日を生きる
その「連続」が不思議であることに加えて、連続の主体である自分の「自己の認識」が途切れ途切れ、曖昧になる、ってのは、やはり単に気のせいなのかなぁと。
とかなんとか、うーむ、ぐるぐる、あんまり考えないようにします(笑)